人生には、大きな決断よりも、
静かな手続きによって動く瞬間がある。
先日、法務局へ行った。
目的は、今住んでいる家の所有権移転——相続登記のためである。
窓口に書類を提出し、手続きが完了したとき、
不思議と胸の奥に小さな安堵が広がった。
それは達成感というより、
長い時間をかけて背負ってきたものを、
そっと降ろしたような感覚だった。
思えばここまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
介護、施設探し、度重なる判断。
目の前の現実に向き合いながら、
ただ一つひとつを整えるように進んできた。
渦中にいるとき、人は「大変だ」とさえ思わない。
ただ、今日を越えることに精一杯になる。
けれど振り返ってみると、
その積み重ねが確かに人生を前へ運んでいたのだと分かる。
第九話で、私はこんなことを書いた。
「始めるのに、ふさわしい年齢などない」と。
もしかすると人生は、
何かを始める決意によって動くのではなく、
こうした現実の節目によって、静かに次の章へ進んでいくのかもしれない。
手続きというものは不思議だ。
書類の上では、ただ名義が変わるだけ。
だが実際には、そこに流れていた時間や、
家族の歴史までもが、ひとつの区切りを迎える。
帰り道、妻の表情がどこか柔らいで見えた。
きっと私も同じ顔をしていたのだろう。
大きな出来事は、案外静かに終わる。
そして静かに、次が始まる。
これから先、特別なことは起こらなくていい。
ただ穏やかに暮らしていけたら、それで十分だ。
急がなくてもいい。
大きく変わらなくてもいい。
人生はきっと、こうした節目のたびに、
少しずつ形を変えながら続いていく。
第九話で気づいたことがある。
そして第十話のいま、ひとつ分かったことがある。
人生は、決意した瞬間に動くのではない。
整えた人のところから、静かに動きはじめるのだ。
